タイ

アユタヤの日本人村でかつての繁栄や日本との深い関り、山田長政を知って目から鱗でした。

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みなさサワディーカップ。今日は前回まで書きなぐっていたバンコクを抜けて一時アユタヤ記事で一息つこうと思います。行ってきたのはアユタヤの日本人村。ヤンゴンでもマイナー観光地日本人墓地に行ってきたのですが、アユタヤでもあまり観光客の行かないような日本人村というところに行ってきました。

 

アユタヤ日本人村とは

日本人村は、アユタヤのコレイン郡にあり、当初は、地元に根付いて生計を立てていた日本人のコミュニティでしたが、16世紀後半、貿易のために多くの外国人がアユタヤにやって来て、時を同じくし、日本政府も日本人に海外貿易を許可したところで、日本人の多くも貿易をおこなうためアユタヤに来ていました。

他の国々と同様に、タイの王は日本人を都心の外に定住させたため、より多くの日本人がアユタヤに住むようになりました。日本人のトップは山田長政という人物で、後にオークヤー・セーナーピムックという官位・欽賜名の地位に就き、ナコンシータマラート州の知事にまで登りつめました。その結果、日本はアユタヤにとって重要な役割を果たした国の1つでした。

山田長政 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  • 日本人町営業時間:午前8時から午後4時まで
  • 入場料:50バーツ、20バーツ(学生)
  • 電話番号:035-245-336、02-251-5852
  • ホームページ:http://www.thai-japanasso.or.th

割引の有無も一目瞭然!世界遺産アユタヤ遺跡の観光ツアー&アクティビティ比較一覧表

 

アユタヤ日本人町の地図と行き方

日本人村はアユタヤの中州の外にありますので、行く際は自転車かグラブを使う必要があります。ワットチャイモンコン、ワット・パナンチューンの後に自転車で来たのですが、道中はなかなかローカルな雰囲気が漂っていました。

 

NOP YAMADA入り口

3477号線を川沿いにひたすら進んでいくとNOP YAMADAという店があります。退職した日本人の山田さんが、ここに住み着いてバイクショップでもやっているのかなと思いました。しかしながらこの山田という名前がこのエリアに関しては、とても恐れ多き名前だったということを知ったのは、私が日本人村の門をくぐった時でした。

 

NOP YAMADAの先

NOPヤマダを通り過ぎるとすぐに日本人村のゲートが見えてきます。

 

アユタヤの日本人村

ゲートを抜けるとそこは日本人村。こいのぼりも優雅に泳いでいます。

 

日本人村の料金

チケット表

チケット裏

料金は大人50バーツ、7歳から15歳までが20バーツ、7歳未満は無料です。入場の際にここブースで支払います。自転車はこの受付の横に停めました。チケットの裏にはこの施設の維持に貢献しているであろう協賛会社のロゴがありましたので、感謝の意をこめて、貼り付けておきます。

 

日本人村のトイレと自販機

入場料の支払いをすませて、ちょっと一息。左手に自動販売機とトイレ。煙草大好き日本人には有難い、喫煙できるテーブルと椅子が置いてあります。

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日本人村の資料館

日本人村の資料館

日本人村にはミュージアムが2つあるのですが、まずそのうち入り口に近いミュージアムへ来ました。館内はなかなか荘厳な雰囲気が漂っていて、先人の功績に敬意をはらうとともに、こういう施設を残してくれている人々に感謝です。

 

日本人村の説明書き

壁に貼られた日本人町の概要。エントランスには日本人村と掲示しているのにここではまさかの日本人村。町か村か、どっちが正しいのか未だにわかりません。下記で日本語のほうを文字におこしました。

 

日本人町

アユタヤにああった日本人コミュニティはナシースワン王の御世には存在していたようだ。日本の船でやってきた小さな商人たちの集団だった。彼らは倉庫を建て、商品を買い集めておいて、翌年に日本からくる船を待っていたのである。日本のジャンク船が来るようになったのはマハータンマラーチャー王の末期(西暦1589年)であろう。それ以前に、シャムと日本は琉球王国を通じて交易をおこなっていた。現在の沖縄である。琉球は日本と中国を相手に中継貿易をしていた。

シャムとは、20世紀前半まで呼ばれていた現タイ王国の旧称です。そのシャムが琉球王国を通じて日本と交易をおこなっていたとは、沖縄はけっこうタイにゆかりがあると初めて知りました。

 

日本人町は島の外のチャオプラヤー川の東南側にあった。向かい側にはポルトガル人町があり、北側の運河を挟んで、イギリス人町、オランダ人町があった。

アユタヤと日本の交易の最盛期には、日本人町の人口は約1000から1500人であったと推測されている。ところが日本人コミュニティ頭領は軍事力を持ち、アユタヤ宮廷の政治に介入したので、国王の交代や1629年のプラーサートトーン新王の誕生は、日本人義勇隊のオークヤー・セーナービムックすなわち山田長政は南タイのナコーンシータンマラートの国主(チャオ・ムアン)に左遷され、南タイの国々の反乱を平定するよう命ぜられた。その後、プラーサートトーン王は部隊を派遣して日本人町を根こそぎ粛清した。しかし、日本人は事前に察知してアユタヤを去っていた。

いつの時代も出る杭は打たれるのですね。

 

日本人町は人口が減り続けていた。プラーサートトーン王の初期に日本が鎖国したからであった。日本はキリスト教を禁教にして、対外貿易を禁止、海外からの帰国も禁止した。

アユタヤの日本人はその後のジャンク船貿易にたずさわっていたが、沿岸貿易に限られていた。

鎖国がなかったら歴史が変わっていたという話もよく聞きますが仕方がありません。

 

日本人村の昔の地図

こちらも壁に貼ってあった「推測される航路」という題名の地図。緑色がアユタヤと西洋諸国、青線がアユタヤとジャワ・マラヤです。西洋諸国はえらい遠くから来ているのがわかります。また、地図も昔のものなのか、ちょっと現代地図とは違いますね。

 

昔の農具、鎧

その他当時使用していた、鎧や服、農作器具なども展示されています。

 

アユタヤの説明書き【アユタヤに住んでいた多様な民族】

ナーラーイ王の時代にアユタヤに渡来したフランスの施設ト・ラ・ルベールの記録によれば、聞いた話として、アユタヤ国王の恩沢を頼りに移住してきた言葉の異なる民族は40種族にもなったという。

帝王のごとく偉大な国王になるという思想は、各地を支配するというだけでなく、国王が統治する地域が豊かで平和でなければならないということであった。それが多様な民族を呼び込み、国王の庇護下に暮らす民族の敵の多さに反映していた。

アユタヤの社会や経済の状況から言えば、土地は豊富にあり、人口は希薄であった。だから人口を速やかに増やす方法は、戦争して敵の住民を強制連行することと、移住してくるのを受け入れることであった。

今後日本も人口が減少していく傾向ですので、やはりそれをカバーするのはいつの時代も移民政策なのでしょう。

 

平和で豊かで、政治権力の中心が地政学的に恵まれていたアユタヤは海上交易の港市国家として成長し、この地域における主要な国際貿易センターになっていった。さらに宗教的規律正しさと信用から様々な信仰をもつ異国の人々をアユタヤで、ともに平穏に暮らすことを可能にしていた。

異教の人々を受け入れる懐の厚さ、観光大国タイが存在しているのも、昔からの寛容な国民性かと想像できます。

 

ユデア(Iudea)という地図

「ユデア(Iudea)」と呼ぶこの地図はアユタヤを描いた最も古くて美しい地図である。この地図は様々な主要な場所がそろっていたころを描き、レンガの城壁で囲まれた島、遠くに山、河川、家屋の形状、寺院仏蘭、壮麗な王宮、レンガを敷き詰めた舗道、網の目のように張り巡らされた運河まで、細かく書き込んであり、さながら「東洋のベニス」と呼ばれた所以が示されている。

この地図は、ナーラーイ王の時代の1663年、オランダ人のダーフィット・フィンボーンスによって97×140センチの油絵で描かれている。オランダ東インド会社の本社大会議室HerenⅩⅤⅡ(17人の重役会)を飾っていたものと憶測されている。現在はオランダ、アムステルダムの国立博物館に保管されている。

肝心の地図を撮るのを失念していましたので、地図は下記のリンクから見ることができます。

参考:DRAWING OF AYUTTHAYA – JOHANNES VINGBOONS – Pub. 1665

 

アユタヤ歴史研究センター別館

アユタヤ歴史研究センター別館の映画

日本人村にはミュージアムが2つあり、そのうちもう一つのミュージアムにはシアターがあります。ミュージアムを入ると「日本人ですか?」と聞かれたので、そんなにタイ人に見えるかと思ったのですが、このシアターの音声が日本語だったので、おそらくは日本人と外国人用で音声を分けているのだと思います。マニラのコレヒドール島のガイドのように内容を変えてくるとは思いませんが。。。

過去記事:マニラ観光に来たら穴場スポットですべき8つのこと【城壁歩き・マリンタトンネル・刑務所・小野田少尉】

 

ターオ・トーンキープマーと「トーン」の付くお菓子の由来の説明

ターオ・トーンキープマーと「トーン」の付くお菓子の由来

ターオ・トンキープマーは、アユタヤ人である。ポルトガルと日本の血を引く混血児で、マリー・ド・ギマー・ピナーという名前である。父親は日本とポルトガルの混血児で、母親は日本人であった。二人ともキリスト教のローマン・カトリックを信仰しており、信仰に対する弾圧を逃れアユタヤに移住してきた。日本人町の向かいにあるポルトガル人町に住んでいた。

ターオ・トーンキープマーは「トーン」の付くお菓子、たとえば「トーンジップ」、「トーンヨート」、「フォーイトーン」などの元祖として、タイ人に知られている。

1682年、マリーが16歳の時に、ナーラーイ王治世下の港湾大臣であったオークヤー・ウィチャージェンすなわちコンスタンティン・フォールコンと結婚した。

1688年、政権が奪取され君主が交代した、オークヤー・ウィチャージェンは処刑され、ペットラーチャー王が新しい国王となった。ファールコン夫人は捕らえられ2年間投獄された。

晩年、フォールコン夫人はターイサ王の治世下で宮廷料理人として仕え、ターオ・トーンキープマーの官位を得て、より良い人生を送った。

1732年、ターオ・トーンキープマーは66歳で生涯を終えた。

※ターオ・トーンキープマーは個人名ではなく、宮廷料理人の官位である。三印法典内の位階田表に記されている。中級宮廷料理人には、主菜担当のターオ・テープパックディー、菓子担当のターオ・トーンパヨットとターオ・トーンキープマーの3つがあり、サックディナー400の官僚であった。

日本語がわかりにくいですが、マリー・ド・ギマー・ピナーという日系・ポルトガル系の女性がポルトガルのお菓子をタイに紹介し、それがタイに広まったという話です。

 

寄付ノート

このアユタヤの日本人村にも、ヤンゴンの日本人墓地同様、寄付用の帳簿があります。もちろん、隣にあった寄付箱に寄付をしたのは言うまでもありません。

過去記事:ヤンゴン観光で日本人墓地への行き方。ビルマでの英霊を弔う。

 

2つの仏頭

この日本人村で発掘されたとおぼしき仏頭。このアユタヤ歴史研究センター別館は基本的に展示品は少なく、メインはシアターのようでした。

 

その他屋外、併設カフェ

川のほとり

この日本人村、日本からの朱印船が到着しやすいように川のすぐそばに建っています。洪水の時に真っ先にやられたと思うのですが、大丈夫だったのでしょうか?

 

日本人村のレストランと店員さん

敷地内にあるカフェのようなところで、ブログに載せる旨を伝えて、店員さんと記念撮影。ここには電源もありましたので、充電も可能です。エアコンも効いているのでちょっとした休憩に丁度良いです。

 

山田長政の銅像

山田長政の銅像に両手を合わせました。

 

日本人村の慰霊碑

慰霊碑に頭を下げ、日本人村を後にしました。

 

古びた家

外国人墓地

宿に帰る途中にも、日本人村の近くには古ぼけた館や外国人墓地などがありました。

 

ちなみに日本人村の動画がYouTubeにありました。動画内で使っているスマホのVR機能はなかなか新しい試みです。私は試しませんでしたが、QRコードを読み取るだけでダウンロードされるっぽいので、行く際はぜひ試してください。

割引の有無も一目瞭然!世界遺産アユタヤ遺跡の観光ツアー&アクティビティ比較一覧表

コメント

  1. やまだ より:

    記帳名はアジアマイスターなんですね
    以前に訪れた場所は前のブログ名で記帳してたんでしょうか。。

    • ティケイジェイ高木耕壱 より:

      さすが、画像をよく見られていますね!誰も気づかないと思ったのに(笑)。
      以前は、本名での記帳でしたが、寄付は気持ちの問題だと思い、今回はブログネームで記帳しました。

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