みなさんこんにちは。過去記事「マニラ観光歴史の旅。ルソン島での太平洋戦争の戦跡を巡る旅」で、マニラ防衛隊司令部跡が現国立博物館と記述したのですが、実際に足を運んでこの目で見てきていなかったので、今回リサール公園近くのフィリピン国立博物館へ行ってきました。
フィリピン国立博物館の謎
ひとえにフィリピン国立博物館といっても、グーグルマップで調べてみると、出てくるのは、フィリピン国立美術館(National Museum of Fine Arts)、フィリピン国民博物館(Museum of the Filipino People)、人類学博物館(National Museum of Anthropology)で、「フィリピン国立博物館(National Museum)」とは出てきません。
たよりの綱のフィリピン国立博物館のホームページも下記のとおり国立美術館や民族博物館の説明はがっつり記載しているのに、肝心の「博物館とそのブランチ」のページや博物館マップのページはまさかのカミングスーンなので、一体いつからカミングスーンなのか疑ってしまいますが、期待していったラーメン屋にラーメンが無かった時の気分です(笑)。そういうことですので、国立博物館がどこにあるかの明確で公式な情報が現在のところありません。
- 国立美術館(National Art Gallery)
- フィリピン民族博物館(Museum of the Filipino People)
- 宇宙史博物館(Planetarium)
- 地域博物館(Regional Museums)
ただ、グーグルで検索して出てくるブログ等を見てみるとフィリピン国立美術館を国立博物館とみなしているので、私もとりあえず、それにのっかってみようと思います。
国立美術館について
国立美術館(ナショナルアートギャラリー)の建物は元々、公共事業局のアメリカ人コンサルティング建築家であるラルフ・ハリントン・ドーンと彼のアシスタントのアントニオ・トレドによって公共図書館として設計されました。
建設は1918年に始まりましたが、資金不足のため数回中断されました。その建物が公共図書館でなく立法府で使用されると決定された際、その建築計画の修正はフアン・アレラノに委任され、その後、当局の建築家によって管理・監督されました。建物は1926年7月16日に完成し、それまでにかかったコストは400万ペソにも及びました。
この建物の建造は、ダニエル・バーナムによるマニラ開発計画の一部でした。建物完成後、2階、3階、4階は上院と下院で占められ、グランドフロアは国立図書館として使用されました。
1934年には憲法条約に関する会議がこの建物で開催され、そのエントランス前の階段で、マヌエル L. ケソンはフィリピン大統領に就任を宣誓したことで有名です。この立法府の建物は、1945年のマニラの爆撃と砲撃の犠牲となり、元来のデザインに従って1946年に再建されましたが、風格のある丸みを帯びた円柱の平らなピラスターの交換など、いくつかの修正が加えられました。
1996年半ばにフィリピン上院が建物から撤退し、2003年には、改修により国立博物館の美術館に変貌を遂げました。
入場料
通常は大人150ペソ、子供50ペソのようですが、この日は無料で入ることができました。
国立美術館のみどころ
国立美術館の展示品の数々は、メインビジターエントランス(パドレブルゴスアベニュー沿い)のある2階(ハウスフロア)から始まり、17世紀から20世紀までのフィリピンの芸術品を取り扱っています。展示は建物の3階(上院階)まで続き、20世紀から21世紀までのフィリピン現代コンテンポラリーアートなどの一時的な展示も開催されているのが特徴です。
館内展示
2階ハウスフロア(旧下院セッションホール)
この歴史的なホールは、クラロ・M・レクトが議長を務める1934年の憲法会議の会場であり、その他多くの重要なイベントの会場でもありました。そしてそこには、国内で最も有名な絵画の1つである、フアン・ルナ(Juan Luna Y Novicio)のスポリアリウム(Spoliarium)が展示されています。
スポリアリウムの反対側真正面には、El Asesinato del Gobernador Bustamante(知事ブスタマンテの暗殺)が展示されています。
また、ホールの入り口の外には、レナト・ロシャとホセ・メンドーサの支援を受けた、ナショナルアーティスト、ナポレオン V.アブエバによって作成された2つの大きな木製のレリーフがあります。彼らの作品には、ラジャ・スレイマン、彼の宮廷、パリセード、ミゲル・ロペス・デ・レガスピそしてマニラの建国があります。
2F南館ギャラリー
南館にあるギャラリー1には17世紀から19世紀の宗教美術が展示されています。スペインの植民地支配下にあった17世紀から19世紀にかけて、フィリピンではキリスト教をテーマにした美術が流行(prevalent)しました。
これらの宗教的な作品の多くは、聖母マリアとイエス・キリストのレリーフと絵画だけでなく、無名の芸術家によって作られた彫刻が施された木製のサント(聖人)(carved wooden santos (saints))も多くありました。このギャラリーには、ボホールのディミアオにあるサン・ニコラス・デ・トレンティーノ教会のレタブロ(祭壇画)(retablo)である国立文化財も展示されています。
ギャラリー2は、博物館ホームページによるとマドリードの王立植物園書庫からの版画が展示されています。1700年代半ば、スペインの薬理学者であり植物学者のフアン・ホセ・ド・キュラーは、フィリピンの芸術家にルソン島でのフィールドワークから集めたフィリピンの植物の絵を描くよう依頼しました。
それらの版画は、マドリッドの王立植物園の書庫に1世紀以上保管され、1988年に研究者のマリア・ベレン・バニャス・リャノスによって再発見されました。1996年、スペイン政府は、スペインのフアン・カルロス1世がフィデル V. ラモス大統領に贈ったコレクションの特別なコピーをフィリピンに贈呈しました。コレクションは現在、このギャラリーに展示されています。
ギャラリー3にはアカデミックおよびロマン派美術が展示されています。博物館ホームページの文言がギャラリー2の文言と同じなので、もう何が正しくて何が間違っているのかわかりません(苦笑)。
ギャラリー4にはアカデミックおよび新古典主義(Neoclassical)の彫刻が展示されています。19世紀には、フィリピンの彫刻家マスター、イサベロ L. タンピンコ(1850-1933)が現れました。
彼はホセ・リサールと同世代で、エスティロ・タンピンコスタイルの彫刻(carving)と装飾(ornamentation)を創作したことで知られていました。彼の息子のエンジェルとヴィダルは彼の手法を踏襲し、この建物の3階にある旧上院セッションホールで彫刻を彫るのを手伝いました。
タンピンコの同世代の芸術的後継者には、グラシアーノ・ネポムセノ、アナスタシオ・カエド、フロレンティーノ・カエドなどの力強くでアカデミックで新古典的なスタイルが特徴の人たちがいます。彼らの作品もこの美術館に展示されています。
ギャラリー5はホセ・リサール博士へ敬意を表した品々が展示されています。このギャラリーは、自身の確かな愛国心と、絶賛された小説「ノリ・ミー・タンジェレ」と「エル・フィリバステリスモ」で広く世に知られているホセ・P・リサール博士(1861-1896)を称えています。
ここには、イサベロタンピンコ、グラシアーノネポムセノ、ギジェルモトレンティーノ、マルティーノアベッラーナなど、20世紀初頭から20世紀半ばまでの著名なフィリピン人アーティストによるリサールの肖像画や絵画がいくつか展示されています。そして、著名な医師であり作家でもあるリサールは、熟練した芸術家でもありました。
このギャラリーには、彼の1886年のベルリン訪問からジャンダルメンマルクトの景色を描いた絵や、リカルドカルニチェロ、サンパブロエルミターノ、オヤンダピターナらの胸像、国の重要文化財であるマザーズ・リベンジが展示されています。
ギャラリー6には20世紀の古典芸術が展示されています。20世紀初頭のフィリピンの芸術家フアン・ルナとフェリックス・レスレクシオン・ヒダルゴの晩年の作品の後継者ら(successors)は、フィリピン大学の美術学校のアモルソロスクールによって学術的に教えられた古典的なスタイルで絵を描きました。
そのような芸術家たちは、スペイン植民地時代後期から第二次世界大戦前のアメリカ占領まで活発に活動しました。このギャラリーに展示されている作品の著名な芸術家は、フェルナンド・アモルソロとその従兄弟でメンターでもあるファビアン・デ・ラ・ロサ、ホルヘ・ピネダ、イレーネオ・ミランダ、パブロ・アモルソロ、そしてモダニズムの到来前にフィリピンの芸術を形作った他の多くの芸術家たちです。
建物内にはギャラリーと称される部屋の他に、一時的に使用されていると思われる、部屋もありました。
2階北館ギャラリー
第二次世界大戦の勃発(outbreak)により、フィリピンの芸術家は、この時代の対立と苦しみを表現したシーンを数多く描きました。 このギャラリー8の作品は、1941年から1945年までの日本帝国の占領、アメリカとフィリピン軍によるフィリピンの解放(Liberation)、マニラの破壊を描いています。このギャラリーには、バターン死の行進を歩いた後に兵士が竹のベッドで休んでいるところを表したデメトリオ・ディエゴのキャパス(Capas)も展示されています。
ギャラリー9です。
ギャラリー10と11です。ギャラリー10は閉まっていました。
そしてギャラリー12。
国立博物館は防衛隊司令部に使用されていたのか?
さて、上記で美術館内の美術作品を見てきました。ふと、2階と3階を結ぶ階段の踊り場にある窓から外を見てみると、なんと司令部らしき形をしたエリアが目にとまりました。何とかあそこまで行けないかなと思いながら、歩いている人が一人もいないので、立ち入り禁止区域だなと思いながら、そのまま階段を進みました。
ちなみに写真の奥に見えるのはフィリピン民族博物館です。
そのまま、階段を下りて1階にたどり着き何気に外へ出るドアを開けるとどうでしょう、3匹の猫ちゃんたちがお出迎えです。
そして猫ちゃんたちのいるところから上へ昇る階段を上がると、なんと先ほど窓から見えた光景の場所にでることができるではないでしょうか。手入れされたふかふかの芝生を避けながら石畳沿いに進むと鉄格子で覆われた吹き抜けから下の中庭が見えます。どうやらこの博物館のオフィスになっているような感じでした。
芝生の中にポツンとあった小屋のような場所から階段で下に降ります。雰囲気のある廊下が、以前防衛隊司令部に使われていた雰囲気を醸し出します。
その元防衛隊司令部らしき建物のルーフトップから美術館を撮った写真。
フィリピン民族博物館も道路を挟んですぐ目の前。この司令部建物にも専用の出入り口はあるのですが、なんだか部外者以外立ち入り禁止的な雰囲気でしたので、行くにはやはりメインエントランスにまわって遠回りするしかなさそうです。
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