太平洋戦争(大東亜戦争)の歴史
大日本帝国と、イギリス、アメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国との間に発生した戦争。
1941年(昭和16年)12月8日に日本は開戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)によってイギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告し、最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施しました。
参照:大東亜戦争遺跡
マニラ市街地
ネルソン飛行場(旧日本軍陸軍飛行場)
敗色が濃厚となった昭和19年(1944年)、山下奉文将軍は第14方面軍司令官として任命され、フィリピンの防衛戦を指揮することとなり、彼が着任時に降り立った空港がネルソン飛行場です。
意外にもこのネルソン飛行場はマカティのど真ん中にあり、滑走路はおなじみアヤラアベニューとパセオデロハス通りでした。
そして、その管制塔はネルソンタワーと呼ばれ、現在は資料館となっています。このネルソンタワーは明治29年(1896年)のフィリピン革命の記念にアヤラ財閥によって図書館として建設され、戦争中にネルソン飛行場の管制塔として使用されたあと、昭和49年(1974年)に博物館となりました。
ネルソン飛行場は終戦後の1946年に施設が修復されて民間国際空港となりましたが、1948年に移転にのため閉鎖されました。
参照:大東亜戦争遺跡
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アメリカンセメタリー(桜兵営(マッキンレー)跡)
日本側の守備態勢は、バエ湖(ラグナ湖)方面に陸軍1個大隊、ニコラス飛行場に陸戦隊1個大隊、マニラ東方のサンフアンと東南方フォート・マッキンレー(現在のマカティ市フォート・ボニファシオ。日本軍呼称「桜兵営」)に各陸戦隊1個大隊が配置され、残り陸戦隊4個大隊・陸軍2個大隊が市内中心部と港湾部に展開した
参照:
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フィリピン空軍博物館
ルバング島で終戦を知らずに30年間戦い続けた小野田少尉の私物やB29のエンジンが展示されています。
以前、マニラ穴場観光や個別記事で紹介しました。
アメリカ大使館
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アーミー・ネイビークラブ(水交社)
水交社とは、海軍高等官(少尉以上の高等武官、工廠の技師などの高等文官)のための組織です。海軍高等官になると同時にこの水交社の会員になり、水交社の設備を利用する資格が発生したようです。時の海軍大臣が会長を務め、現代風に言うと「海軍省が所管する特殊法人」であったようです。
実際にリサール公園近くの跡地に行くと、建物の上のほうに「ARMY NAVY CLUB 1911」と記載されているのがわかります。
正門を出たすぐのところには「カジノフィリピーノ」というカジノらしき建物がありますが、本当にカジノなのかは定かではありません。
キアポ(戦前戦中の繁華街)
現地の買い物客でにぎわうキアポ教会周辺は、戦前戦中も変わらず繁華街として賑わっていました。
マニラ防衛隊司令部跡
現国立博物館新館。下記詳細記事では、日本人はあまり行っていないであろう、指令室の建物らしきところに侵入取材を敢行しました。
▽詳細記事▽

マニラホテル(マッカサー司令部)
1912年7月4日創設の老舗ホテル。1935年から1941年まで、ダグラス・マッカーサー将軍がフィリピン軍事顧問としての任期中に、ペントハウスを住居として使用していたことで有名です。
▽詳細記事▽

イントラムロス(旧スペイン人街)
- マニラ大聖堂(日本が建設)/メモラーレ(罪なき人々の群像)
- サンチャゴ要塞(マニラ憲兵隊本部)
- サンオーガスチン教会(世界遺産。現存するマニラ最古の建造物)

第12陸軍病院跡(現:マニラ市役所裏)
作成中
メトロポリタン劇場
現存するフィリピン最古の劇場。
サントトマス大学
連合軍側民間人捕虜収容所。現在はその面影もなく、知る人ぞ知る戦争遺跡となっています。以前、このブログの記事「天空の城イントラムロス。かつては有名大学や多くの教会があった古の地。ディビソリアからの地図付きの行き方。」で詳細な位置を調査しましたので、ご参照ください。
参照:https://friendshipmanila.com/d_tours/senseki.html

ジャパニーズガーデン
リサール公園というマニラの歴史的な公園になぜか日本庭園があります。
▽詳細記事▽

ルソン北部
マバラカット飛行場跡
マニラの北100km程のアンヘレス近くに神風特攻隊初飛行のマバラカット飛行場跡があります。
参照:https://4travel.jp/travelogue/10823121
▽アンヘレス観光では最もメジャーでしょう▽

バターン死の行進
グーグルマップに「Death March Maker」と入力すると、死の行進があったポイントが表示されます。
第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。
>>マニラからバターンへの行き方はこちら:マニラから死の行進で有名なバターンへはフェリーで行くのがおすすめ
参照:
バギオ周辺
ケノンロード
20世紀初頭のアメリカによるマニラからバギオまでの道路整備。困難を極めたケノンロードの建設に日本人労働者が関与したことはあまり知られていません。
そのケノンロードを一望できる展望台から見る景色は、日本人のアイデンティティを再度認識させます。
キャンプ・ジョン・ヘイ(Camp John Hay)
かつての米軍基地。日本人の強制収容所として利用された後、アメリカ人収容所としても使用されたことがあります。
ボタニカル・ガーデン(Botanical gardem)
公園奥には第二次世界大戦時に日本軍の野戦病院として使用された防空壕がそのまま残っています。
ザ・マンション(The Mansion)
フィリピンがアメリカ占領下だった頃、マニラの暑さに耐えかねた当時のアメリカ人総督用の避暑住居として建てられました。
リンガエン湾
虎工隊第19連隊所属の墓
参照:https://www.hub1234.com/0129.html
ルソン南部
アプライヤ小学校正面の記念碑
1945年2月12日、この学校に400人以上の男たちが、日本軍によって強制的に集められ、ラグナ州カランバのリアールで殺された。
バランガイ・サンペロハン(Sampiruhan)円柱の記念碑
ここで残酷で恐ろしい出来事があった。残虐な日本軍によって、無実の子どもから大人まで、妊婦から母に抱かれた幼児まで、70人も銃剣で突かれて焼き殺された。
バランガイ・サンペロハン三叉路の記念碑
1945年2月12日、このリアールのバランガイで日本軍によって2000人の男性が、ラグナ州カランバから欺かれて集め縛られ、正当な理由もなく銃剣で虐殺された。
日本軍戦犯たちが収容されたモンテンルパ
過去記事「マニラ観光に来たら穴場スポットですべき8つのこと【城壁歩き・マリンタトンネル・刑務所・小野田少尉】」で紹介しました。
フィリピン戦跡ガイド: 戦争犠牲者への追悼の旅(戦跡ガイドシリーズ)の目次
フレンドシップツアーさんではマニラ戦跡ツアーも承っているようです。
コメント
[…] マニラ観光歴史の旅。ルソン島での太平洋戦争の戦跡を巡る旅太平洋戦争(大東亜戦争)の歴史 大日本帝国と、イギリス、アメリカ合衆国、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの […]
[…] みなさんこんにちは。過去記事「マニラ観光歴史の旅。ルソン島での太平洋戦争の戦跡を巡る旅」で、マニラ防衛隊司令部跡が現国立博物館と記述したのですが、実際に足を運んでこの […]
[…] 今日は、先日記事にした「フィリピン観光マニラ近郊・ルソン島編 太平洋戦争の戦跡を巡る旅」を調べるためマニラ近辺を練り歩いた際、タイトルのマニラホテルのボリュームが意外に […]
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